興味のプロセス

に興味がある。なぜ意識がそれに吸い寄せられるのか?なぜそれが気になって仕方ないのか?
どんな対象に興味を持ちやすいのか?どうすれば興味が深まるのか?分かりそうで分からない。

「好きだから興味がわく」では何も説明していないし浅い。具体的過程と原理が知りたい。

というか、好きでも嫌いでもなくても妙に気になる体験は沢山ある。いわゆる「目を引く」もの。
なぜ、それに目がとまり、意識が吸い寄せられ、情報処理が促進されるのか?

それに、興味が引かれるものであっても、細かく見ると各瞬間に興味のある部分とない部分が沢山生じていて、
それらが運動しあい反応しあうことで全体としての興味が調合されているようである。
だから、「数学が好きだから興味があるのだ」のような言い方ではまるで何も説明できていない。

興味の具体的プロセスとメカニズムを知った上で全てをコントロールしたい。
例えば、30秒かけてコカコーラのペットボトルを観察する状況において、
1秒刻みで興味が揺れ動き深まっていくプロセスを全て観察し、
各プロセスで適切に意識操作を行うことで能率的に興味を深めていきたい。
これは「園芸に興味を持つ」といった抽象的対象の場合もまったく同じ。
なぜなら、コカコーラのボトルのような具体的対象であっても、興味を深めていく過程で
「コカコーラ社への興味」や「飲み物への興味」のような抽象的興味が生じてくるから。


【東方Vocal】Miniature Garden 〜変わらぬ想い〜【シンデレラケージ】 ‐ ニコニコ動画(原宿)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm14347929

かっこいい。EastNewSoundの曲は割と好きだけどこの曲は特別心に響く。

見え方の固定

固定観念という言葉があるけれども、そもそも観念(心の中で意識される内容)はそこまで固定するものなんだろうか?
「固定観念がある」と言う時に固定されているのは、観念ではなく思考や行動ではないのか?
そう考えると、固定観念という言葉自体が、「観念は固定しやすいもの」という固定観念を前提にしているのかもしれない。

慣用的な意味での「固定観念」はありふれたものかもしれないが、字義通りの「固定観念」は、貴重なものだと思う。
観念とは移ろいやすいものだと思うからだ。
この意味での固定観念のことを「固定された見え方」と言い表そう。

固定された見え方は貴重であり、意図的に見え方をコントロールして固定することは有用だと思う。

見え方の固定の例を挙げてみる。例えば、「固」という文字の字体に注目し、「固」から受ける印象(観念、見え方)を観察する。
よくよく観察すれば、時々刻々と印象がしっかり変わっていることに気付く。
同一の刺激であっても、そこから受ける印象は、目まぐるしく変化し、流れ動いていく。

多義図形という言葉がある。ウサギにもアヒルにも見える図形。若い女性にも老婆にも見える図形。
だまし絵として一般的によく知られ、視覚心理学のテキストでは錯覚の例として紹介される。

ところで、「正しさ」の定義を全部ひっくり返せば、あらゆる見え方は錯覚であると言ってしまうことも出来そうだ。
というのも、錯覚とは、「正しい」見え方なるものを仮定した上で、「おかしな」見え方のことを指すものであるが、
「正しい」の定義は、他の「正しい」とされる見え方との整合性で定義されているに過ぎないから。

もうちょっと穏やかに言えば、あらゆる見え方は、多義図形のように見え方がひっくり返る可能性を秘めている。

そして、現に物事に対する我々の見え方というのは、目まぐるしく、ひっくり返っている。
思考にばかり意識が向いていて、感覚にあまり意識が向いていないので、そのことに気付かないだけで、
見え方に自覚的であれば、見え方がいかに常時変化しており、さまざまな方向へと揺れ動き、新たな反応を引き起こしているかが分かるだろう。

特定の見え方は、人間の人生に決定的なインパクトを与えることがある。
「出会い」が人生に大きな転換をもたらすのは、出会いが新しい見え方を提供するからだと思う。

逆説的だが、見え方を固定することが、新しい見え方を可能にすると思っている。
あまりに見え方は揺れ動いているため、なかなか自覚することができない。
見え方を固定することで、見え方が一定範囲でしか揺れ動いていないことを自覚でき、
そこから新しい見え方への扉が開かれる。そう思う。

ここで、中途半端な固定ではなく、厳密に固定しなければならない。
厳密に固定しようとする過程で、微妙な見え方のゆらめきが見えてくるだろう。
微妙な見え方の違いに対する感受性の高まりが大事である。

関係した事柄に、美しさの感じられかたがある。

美しさの反対は醜さではなく退屈さだと思う。これは「好きの反対は無関心」という言葉と関係している。
退屈で飽き飽きしているとき、微妙な違いや細部には関心を失い、全部引っくるめてつまらないというレッテルをぼんやりと貼ってしまう。
レッテルが貼られて全てが平坦で曖昧に感じられるときに、(根本的に)新しい見え方は浮かび上がってこない。

しかし、本当に美しいと思えるものは、退屈さを打ち壊し、否が応にも関心を引きつけ、明確な見え方を人の心に突きつけてくる。
見え方を強制的に固定させてくる。その結果、見え方に対する感度が急に高まって、細部の構造、繊細な変化が見え方の運動を引き起こす。
だから、美は思考とも関係している。物事を美しいと思ったり、刺激的に感じたり、面白いと思ったり、深く納得したりするときに、
私たちはレッテルの世界から見え方そのものの世界へと移行し、創造的な思考を駆動させている。そのように捉えている。

私が「良い音楽はいつ聴いても良い」とか「本当の美人は三日で飽きない」と言っているのも、これと関係している。

したがって、美的感受性は見え方の固定能力とも言える。
ぼんやりとレッテルを貼って見るのではなく、瞬間の見え方を捕まえて固定してシャープに捉える能力。

ただし、この固定能力が無くても、周囲から繊細な感性を持っていると評価されることはある。
その人にとって本当に美しいと感じるものがありさえすれば、それらに対しては繊細な感性を発揮できるので、一見感性豊かに見える。
しかし、興味のないことに対しては、鈍感である可能性は十分にある。
もしそうであれば、それは「その人の感性は繊細である」というよりも、「その人の感性は〜に対して繊細である」と言ったほうが良い。

そうではなくて全般的な感性が繊細であることもあるだろうが、その場合は、見え方の固定能力が優れているのだと思う。
瞬間の見え方を記憶したり、名前をつけていつでも呼び出せるようにしたり、固定させて観察したりできるのだと思う。
また、退屈なことでも見え方の世界にアクセスして、興味をもって楽しむことができるのだと思う。

新しいステップ

地道な研鑽を重ねているうちにいくつかの面で余裕が出てきた。
今後はさらに色んな面で力をつけて根本的に新しい体勢を作り上げたい。

冷静に考えると残された時間はあまり無い。限られた年月で目的を遂行しなければならない。

しかし、焦りや不安は禁物。今を楽しんで着実に楽しみを広げていきたい。
楽しさのレールから外れたらすぐさま元に戻ることを繰り返していく。
そうして常に楽しさに焦点のあった努力を積み重ねていく。

そして一歩一歩の歩みを大切にする。直前の一歩はどういうものだったのか?
今歩んでいる一歩はどんなものか?これから歩むべき一歩はどんなものか?
それを確認しながら一歩ずつ歩んでいきたい。

ソフト

オリンピックレベルの短距離走になると地面をソフトに蹴っていてフワフワ浮かんでいる感じになるという。
日常動作においても慣れてきて高速化してくると柔らかい身のこなしでさらっとこなせることがある。
それが可能になるには脱力が肝心だと思われる。柔らかい心身は必須だろう。柔らかくないとすぐに熟練度が頭打ちになる。
それだけでなく、何か行動を起こす時に緊張しないためには意識を安定させることが何より大事だと思う。
なぜなら、細部にとらわれて意識が乱れると必ず意識が欠如して、それをカバーするために緊張がどうしても生まれるから。
最近集中力が高まってきて意識の安定度が高まってきた。ターゲットにカチッと照準を合わせて意識を固定できるようになりつつある。
少し考えないといけない動作、「あーしてこーしてそーして」と3手かかる動作も1手でヒョイとソフトにこなしたりできる。
このソフトな処理感、よどみなく引っかかりなくスラスラこなせる感じがすばらしいので追求していきたい。
そのためにも、何かトラブルが起きたり気になることが発生したりしても意識を乱されないような精神力を養っていきたい。

Nsen

本日から始まったニコニコのサービスNsenについて感想を書く。

Nsen - 東方チャンネル - ニコニコ生放送
http://live.nicovideo.jp/watch/nsen/toho

良いところ

・東方音楽について不特定多数とリアルタイムに語り合えるチャットが24時間用意されている
今のところ人数は多く1分間に5つ近くコメがある
雰囲気も和やかで、東方アレンジ動画にありがちなように批判や煽りで場が荒れることも少ない

・過疎りがちな低再生数動画を大人数生放送で視聴できるのも貴重
埋もれた名動画が共有され広まっていくきっかけになる

・ある種の質がある程度保たれた音楽ラジオなので作業用BGMとして聴ける

・流された動画の履歴に表示されているGood数は曲のある種の「一般受けの良さ」をよく表わしている
一般受けと言えば、再生数やマイリス数という指標もあるが、投稿日時や再生数に大きく左右されてしまう難点があった
Good数にはその心配が無い
(追記:時間帯による人数の違い、コメントでその動画が盛り上がったかどうかによる違い、頻繁にNsenで流された曲かどうかによる違いはあるので、
「その心配が無い」は言い過ぎだった。それでもGood数は参考にできる指標だとは思う。
例えば、再生数三桁の動画の次に五桁の動画が流れてきたら両者のGood数の比較は一定の意味を持つと思う。
これに対して両者のマイリス数の比較やマイリス率の比較はあまり意味がないと考える。)

・東方音楽界が全体的に盛り上がることが期待される
東方音楽に詳しくなくても、東方をいくらか知っていれば盛り上がっている生放送に興味を示すだろう

その他

・狂ったようにガンガン動画を発掘している人にとっては、メジャーな動画が大半なため物足りないかもしれない
1時間聴いて見た限りでは、過半数は知っている曲だったし、再生数も5000以上のものが8割がただった
ただ、Good数は発掘にちょっと使えるかも

・リクエストの当選確率は低く、当選しても流れるまでには凄く時間がかかるらしい

強い夢想

この世界には、夢見ることは良いこととする理想主義的な価値観がある一方で、
現実から乖離した夢想を批判的にとらえる現実主義的な価値観もある。

漠然とした理想主義には元気を与えてくれる程度の意味しかないが、
「使命感」「情熱」といった明確で力強い感覚をともなった理想主義には確かな意味がある。
そうした力強い理想主義は、確かなパワーとプロセスと成果物をもたらしてくれる。

これは同じ理想主義でも中身が違うので、「強い夢想」と呼んで区別したい。

強い夢想は、必ずしも明確な目的、目標、根拠を持たない。
いずれかが欠けているからこそ理想主義的だとすら言える。
これらが欠けていても、明確で力強い感覚がありさえすれば良い。
力強い感覚が確かなパワーとプロセスと成果物をもたらしてくれる。

ここで偉人たちの言葉を見てみよう。

理想主義のない現実主義は無意味である。現実主義のない理想主義は無血液である ロマン・ロラン 理想主義的平和主義の作家
現状は悲観的に、将来は楽観的に 谷川浩司 棋士
現状の知的分析はあくまでも悲観的に行い、将来に向けてはあくまでも楽観的に行動しよう アントニオ・グラムシ イタリアの政治活動家
頭は徹して現実主義であれ、胸には理想主義の炎を燃やし続けよ ヨハン・ガルトゥング 行動する平和学者

ここでは現実主義と理想主義、悲観と楽観は相容れないものではなく共存すべきものとされている。
いずれも内容的には似ている。さまざまな偉人が口をそろえて、現実主義と理想主義の両立、悲観と楽観の両立を説いている。
一般に、二項対立を立ててどちらか一方だけを選択するのは偏りを生む。うまい組み合わせや中庸を考えるのが良いと思う。

ここでの理想主義は言うまでもなく強い夢想である。

強い夢想と楽観主義は相性が良い。
なぜなら、夢のために我が身をなげうって尽力している人間にとって悲観主義はありえないからだ。
もちろん現実的なデメリットやリスクは考える必要があるが、それと悲観とは全く別問題である。
悲観とはデメリットやリスクをただ考えることではなく、それを過大に捉えることである。
そして過大にデメリットやリスクを考えてしまうのは、結局のところ我が身が可愛いからではないのか?
つまり、自分の身を夢に献げている人間にとって、悲観主義とはありえないものである。

有意味感

生活の充実感には有意味感が大きく関係していると思う。
有意味感とは物事を意味深く感じること、またその感覚を得る感性的な能力。
有意味感が高まっている時はあらゆる物事に意味があるように感じられる。
有意味感のない時はあらゆる物事に意味が感じられず、意味を求める行動や思考が増える。酷いと自殺も考える。

メスカリンを服用すると有意味感が高まる。哲学者オルダス・ハクスリーは『知覚の扉』でその体験を書いている。メスカリンは日本では麻薬指定されている。

『知覚の扉』から
http://www.eleutheria.com/vquest/compare/TheDoorsofPerception.html

私の眼にしていた花々も、私−いや「私」という名のノドを締め付けるような束縛から解放されていたこの時の「私でない私」−が見つめようとするものは、どれもこれも仏陀の悟りなのであった。たとえば書斎の壁を埋めている書物も、仏陀の悟りであった。私が見つめるとき、本は花瓶の花と同じように、やはり輝く色と深い意味深さに燃えるのだった。

あらゆる対象のあらゆる細部の一つ一つに大変な意味深さが感じられる。意味深さの前では空間や時間は関心の中心から外れる。

私の心はまず実在感の強さと意味の深さに関心が集中し、距離や位置がどうかという問題には、それほど心を向けなくなっていたということなのである。
空間に対する関心がなくなった中で、時間に対するそれ以上の完璧無比な無関心がやってきた。

これが深い意味での没頭する、味わうということだろう。ここで重要なのはメスカリンという薬物ではなく有意味感とは何かということである。

さりげなく置かれたインテリアの異様さ、なにげない発言の意味深さ、ありふれているはずの光景の特殊な感じに心を奪われたことはないだろうか?
不思議さ、神秘性、奇妙さ、奥深さにどんどん引き寄せられて、釘付けという言葉通り釘で心を打ち抜かれて目が離せなくなる。